山本慈昭(やまもとじしょう)さんは「中国残留孤児の父」と呼ばれる人物ですが、フジテレビ系の「奇跡体験!アンビリバボー 」でも特集されるそうです。
300人もの父親とも言われている山本慈昭さん、戦後中国残留孤児と肉親との再開に人生を捧げたそうですが、自身も死んだと思われていた長女と奇跡の再会を果たしたそうです。
そこで今回は、山本慈昭さんの活動や山本慈昭記念館について見ていきたいと思います。
Contents
山本慈昭さんは8歳で出家
山本慈昭(やまもとじしょう)さんは、1902年に長野県の飯田町に生まれたそうです。
生まれた時の名前は「山本梅雄」だったようですが、僧侶になるために後に「山本慈昭」に改名。
山本慈昭さんは、もともとお寺に生まれた訳ではなく家庭の事情により8歳で出家することになります。
8歳というとまだ小学校の低学年ですが、父親を若くに亡くした山本慈昭さんは曽呂になるためにお寺に入って修行の日々を過ごしたそうです。
19歳で京都の比叡山に移った山本慈昭さんは厳しい修行に打ち込み、35歳の時に長野県の阿智村にある長岳寺の住職になります。
満州に渡った山本慈昭さんはシベリアに抑留
阿智村の長岳寺の住職となった山本慈昭(やまもとじしょう)さんですが、時代は戦争の真っ只中。
僧侶をする傍ら教員もしていた山本慈昭さんは、生徒の引率役として当時の満州国に渡ります。
この時山本慈昭さんは妻や娘も一緒に渡ったそうです。
満州国での滞在は1年間の予定だったそうですが、ソ連が攻めてきたことにより山本慈昭さんは家族と離れ離れになりシベリアに抑留されることに。
シベリア抑留者の過酷な生活は、いろいろな形で取り上げられていますが、山本慈昭さんもシベリアの極寒の地で重労働を課せられたそうですがなんとか生き延びて、2年後に帰国を果たします。
山本慈昭さんは、満州で離れ離れになった家族はとっくに帰国しているものと思っていたそうですが、帰国した山本慈昭さんを待っていたのは心待ちにしていた家族との再会ではなく妻や娘は満州で亡くなっていたという知らせでした。
2年間も心待ちにしてた家族との再会だったはずなのに、この時の山本慈昭さんの気持ちをすべて理解することはできませんが、NARUHEYも家族がいる身なので相当辛かっただろうということは分かります。
娘との再会と中国残留孤児の父となった山本慈昭さん
その後、中国に多くの日本人が戦後も残っていることを知った山本慈昭(やまもとじしょう)さんは、中国残留孤児の肉親探しに人生を捧げます。
実際に中国に渡ったり、長野から東京の国会や省庁に足繁く通って中国残留孤児の実態を訴える活動を続けたそうです。
そんな山本慈昭さんの活動は、テレビや新聞などにも中国残留孤児を取り上げるようになっていき、中国残留孤児の存在は広く知られることになりました。
1982年、山本慈昭さんは生き別れになっていた長女と奇跡的な再会を果たします。
山本慈昭さんの長女はすでに中国に家族がいた為、山本慈昭さんと再会した後すぐに帰国しませんでしたが、その後日本に帰国しているそうです。
山本慈昭さんの地道な活動により多くの残留孤児が日本に訪れたそうですが、いろいろな事情により中には日本に来ても肉親と会えなかったり、肉親の元で暮らすことができない人も多かったそうです。
そんな行き場のない人たちを助けようと、山本慈昭さんは自宅を中国残留孤児やその家族が宿泊できるように提供し、50人以上の孤児が山本慈昭さんと暮らしたことがあるそうです。
そんな山本慈昭さんはいつしか「中国残留孤児の父」とよばれるようになり、1990年に山本慈昭さんが亡くなった時は全国から山本慈昭さんを慕う孤児たちが集まったそうです。
山本慈昭記念館や長岳寺の場所は?
山本慈昭さんには述べ4万通をこえる手紙が中国残留孤児や肉親から届いたそうですが、それらは、山本慈昭記念館に保存されているそうです。
山本慈昭記念館は、長岳寺の門前にあるそうなので長野県に行く機会があれば一度訪れてみたいものです。
山本慈昭記念館のある長岳寺
- 場所:長野県下伊那郡阿智村駒場569
- 電話:265 43 2967